タトラ (Tatra) は、チェコの自動車・ディーゼルエンジン等のメーカー (Tatra a.s.) およびそのブランド名である。
本社・工場はチェコ東部のコプジブニツェ市に所在。社名は旧チェコスロバキアの最高峰であるスロバキアのタトラ山脈にちなむ。
大型トラックの分野で東ヨーロッパを代表するメーカーであり、悪路踏破能力と耐候性に卓越したトラックを作ることで知られている。かつては空冷エンジンを搭載した大型のリアエンジン乗用車も製造していたが、1998年に乗用車分野から撤退した。旧共産圏諸国で広く用いられた規格形路面電車「タトラカー」のメーカーとしても知られている。
チェコ人の実業家、イグナーツ・シュスタラ(Ignác Šustala, 1822年 - 1891年)が1850年、オーストリア・ハンガリー帝国領のネッセルドルフ(Nesseldorf, 現チェコ・コプジブニツェ : Kopřivnice)で、馬車メーカーのネッセルドルフ車両製造会社(Nesseldorf Wagenbau Fabriks Gesellschaft)として開業した。
1881年に鉄道分野に進出して客車の製造を開始。1897年には自動車製造を開始し、ネッセルドルフ車両製造工業会社(Nesselsdorfer Wagenbau-Fabriks-Gesellschaft)に改称した。さらにチェコスロバキア共和国成立にともない、チェコ語地名に合わせてコプジブニツェ輸送機器株式会社(Kopřivnica vozovka, a.s.)に改称した。
「タトラ」ブランドで生産された同社の自動車は、1920年代から1930年代にかけて国際的に高い評価を受けて成功をおさめ、1927年にはタトラ工業株式会社(Zavody Tatra, a.s.)に改称。のちチェコの財閥で、鉄道車両、エレベーターの製造工場やビール醸造所などを経営するリングホッフェル家の傘下に入り、1935年にプラハ・スミーホフに鉄道車両工場を持つリングホッフェル工業株式会社(a.s. Ringhofferovy závody)と合併してリングホッフェル・タトラ株式会社(Ringhoffer - Tatra, a.s.)となり、本社をプラハに移した。この間、自動車のほか鉄道車両、航空機の生産も本格的に手がけた。
1939年のナチスドイツ侵攻にともなってドイツの軍需工場体制に組み込まれたあと、終戦後の1945年、社長のハヌシュ・リングホッフェル(Hanuš Ringhoffer)らリングホッフェル家はナチス協力者として追放され、会社は同年10月の主要重工業企業国有化でタトラ国営会社(Tatra, n.p.)に改組された。傘下にコプジブニツェ工場(トラック、エンジンなど製造)、スミーホフ工場(路面電車、トロリーバス製造)、ブラチスラヴァ工場(土木車両、トラックなど製造及び更新改造工事)、バーノフツェ・ベブラヴォウ支工場(トラック、車軸など製造)、チャドツァ支工場(トラックなど製造)などの各工場を置いた。社会主義政権発足後の計画経済下で乗用車の生産は中止され、一時トラック、バス、鉄道車両の生産に特化したが、1955年には乗用車生産を再開し、大衆車メーカーAZNP社(現・シュコダ・オート社)に対し高級車メーカーとして公用車向けタトラT603などを製造。"タトラカー"路面電車とともに共産圏の各国に広く輸出された。
1989年の体制転換後、1992年に民営化されタトラ株式会社(Tatra a.s.)となったが、西側の自動車メーカーとの競争にさらされてこれまでの主要な市場を失って急速に経営が悪化。乗用車生産を打ち切る一方、軍用車両の受注で経営破綻を免れ、最終的にアメリカ系多国籍企業テレックス社が株式の80.5%を取得して救済した。2006年10月にはチェコの投資ファンド、ブルーリバー(Blue River)が買収。オーストラリアを中心とした欧米市場のほか、中東欧やロシア市場への再進出も図り、2007年には生産能力強化を目的に生産ラインへの大規模投資計画を明らかにした。
しかし世界金融危機の影響で2009年には再び経営が悪化。業績回復を図るため、アメリカのトラックメーカー、ナビスター・インターナショナル社と合同で軍用車両を生産することで合意した。
[編集] 自動車部門
タトラ社の前半生における発展は、同社に所属する優れた技術者であったハンス・レドヴィンカ(Hans Ledwinka 1878年1月14日オーストリア・クロスターノイブルク生まれ、1967年3月2日ドイツ・ミュンヘンにて死去)の存在なくして語ることはできない。
SOHC動弁機構、バックボーンフレーム、スイングアクスル式独立懸架、空冷エンジン、リアエンジン方式、流線型車体など、発明自体はレドヴィンカによるものではないが、彼によって積極的に用いられ、他社にまで一般化した自動車技術は枚挙にいとまがない。レドヴィンカが現役であった1930年代のタトラ社は、世界で最も進んだ自動車メーカーの一つだった、と言っても、おそらく過言ではなかった。
[編集] 創業期
1897年から、東ヨーロッパで最初のガソリン自動車製造を開始。当初、ドイツのベンツ社から技術導入したため、ベンツ同様のリアエンジン構造であった。1898年にはトラックも自力開発している。
1900年以降の生産モデルは一般的なフロントエンジン形に移行するが、1897年に入社していたものの一時会社を離れていた若い技術者のハンス・レドヴィンカが復帰し、開発を受け持つようになってから急激な発展が始まった。
レドヴィンカは1905年、独自設計の新型車「モデルS」を開発した。世界でも最も早い時期にSOHC動弁機構と半球形燃焼室を導入した例である。まず3.3リッターの4気筒モデル「S-4」が開発され、当時としては強力な30HPの出力を発揮して商業的に成功した。当時の自動車市場は限られ、「S-4」の多くはトラック仕様で製造された。
これに2気筒を追加した5リッターの6気筒モデル「S-6」が1909年に開発された。50HP、最高110km/hの高性能車で、レースで優れた成績を上げ、ネッセルドルフ車の評価を定着させた。
[編集] 第一次世界大戦前後と「タトラ」の成立
レドヴィンカは、1914年から翌年にかけてモデルSシリーズより更に強力な「モデルT」シリーズを開発、これらは1920年代中期まで長きにわたって生産された(のちには「タトラ」のネームを付けて販売された)。
だが1915年、新たに就任したネッセルドルフの新経営陣は、自動車部門よりも鉄道車両部門を重視する方針を採った。彼らと折り合いの悪くなったレドヴィンカは1916年に退社し、オーストリアのシュタイア社へ移った。
レドヴィンカはシュタイアで、ジョイントレス・スイングアクスルを使った後輪独立懸架車を設計しており、以後このタイプの独立懸架を多用するようになる。
ジョイントレス・スイングアクスルは、古く1903年にドイツのアドラー社が開発したシステムで、独立懸架としては最も簡潔なものの一つである。差動装置と傘歯車を別体とし、笠歯車がそのまま車軸を揺動させるためのガイド兼ジョイントとなる構造である。左右それぞれの車輪に直結したハーフ・アクスルには、強度やコストの面で不利な自在継手を用いないのが特徴であった。
この方式はのちに、中~高速域での急激な姿勢変動を起こしやすいことから操縦安定性に難点があることが顕在化した。結果、1960年代以降は廃れることになる。しかし1920年代においては自動車の後輪に使用しうる唯一の独立懸架方式であり、その採用は極めて先進的な試みであった。
第一次世界大戦の敗戦でオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ネッセルドルフ市は新たに成立したチェコスロバキア共和国の区域に入った。街の名前もチェコ風のコプジブニツェへと変わり、ネッセルドルフ社もチェコ語名称のコプジブニツェ社(Kopřivnica vozovka a. s.)に改組された。
1919年、ブランド名を「タトラ」に変更している。名称は、スロバキアとポーランドとの国境、カルパチア山系にそびえる名山・タトラ山(最高峰は海抜2,655mのGierlach峰)に由来する。試作した4輪ブレーキ装備車をタトラ山地でテストしたことからのネーミングである(チェコとスロバキアは1993年に分割されるまで一体の国であった)。
[編集] 1920年代~1930年代
[編集] タトラT11
経営者が再び自動車部門重視派に変わったのを機に、ハンス・レドヴィンカが招聘を受けて復帰したのは1921年であった。彼は主任設計者(のち技術担当重役)となり、シュタイア社で果たせなかった小型車の設計に乗り出した。
ブランドがタトラと改称されてから最初の新設計モデルとなった「T11」は、レドヴィンカが交通事故で入院中に着想したもので、1924年に完成した。1100cc・12HPの小型車であるが、シャーシ構成は前例のないユニークなものであった。
鋼管製バックボーンフレームはプロペラシャフトを収めるトルクチューブを兼ねている。フレームの先端に、空冷式水平対向2気筒OHVエンジンと変速機とをスタッドボルト多数で強固に結合、一体的な強度構造の一部とした。フロント固定軸の横置きリーフスプリングはエンジン下に直接固定、後輪は横置きリーフスプリングで吊られたスイングアクスル独立式であった。簡潔さの極致のような車であったが、それゆえ700kgそこそこと軽量で、ごく非力であるが最高速度は70km/h以上に達した。
空冷エンジンは騒音の面で不利であり、また冷却効率の点でも水冷エンジンに劣る。 だが、寒冷なチェコスロバキアでは、水冷エンジンは冬期の冷却水凍結という弱点を抱えていた(ロングライフクーラントが出現する遙か以前の時代である)。空冷エンジンは凍結の心配がなく、しかも水冷式エンジンより単純かつ軽量に仕上がる。更に空冷エンジンの冷却上有利な水平対向式レイアウトは、エンジンをコンパクトにもした。レドヴィンカはそれらのメリットを考慮し、敢えて空冷エンジンを採用したのである。
「T11」と改良型の4輪ブレーキ仕様「T12」シリーズは悪路に強く、道路整備の遅れたチェコ・スロバキアの国情に合致したことで成功、特にトラック仕様「T13」は当時のヒット作となった。T11とその派生モデルは1924年~1933年までに約11,000台が生産された。
一方チューンされてフロントサスペンションも独立式としたT11スペシャルは、欧州各地の小型車レースでも好成績を収め、1925年にはタルガ・フローリオの1100ccクラスで優勝した。
[編集] レドヴィンカによるコンセプトの展開
1927年、社名はブランドと同じタトラ(Zavody Tatra)に変更された。
レドヴィンカはバックボーン・フレームとスイングアクスル式独立懸架を、小型車・大型車、乗用車・トラックの別なく、タトラ車に広く採用した。このレイアウトを大型乗用車や大型トラックに採用する例は世界的には少なく、特異である。
レドヴィンカには、次のような趣旨の発言がある。
- 「我々は荷車と変わらない固定軸のトラックをいまだに走らせ、道路を日々破壊しているのだ」
彼はスイングアクスルの熱烈な信奉者で、「路面に大きなダメージを与える大型車にこそ積極的に用いるべき」と主張し、自ら実践した。1926年にはセミ・キャブオーバーのT23トラック(4気筒7,478cc64HP、積載量3t)がスイングアクスル装備で登場、更に翌1927年には後輪を二軸とした6輪トラックのT26も開発されている。
タトラの試みに追従するように、チェコ国内の競合メーカーであるシュコダ(Skoda)やプラガ(Praga)も、1930年代にバックボーンフレームやスイングアクスルを装備した乗用車を登場させることになる。このような先端技術のトレンドが、決して自動車先進地域でなかった東ヨーロッパで強力に働いたこと自体、驚くべき事である。
1926年に開発された中型車の「T17」は、外見こそ当時の時流に即した平凡なセダンであったが、中身は前後輪とも独立懸架、かつバックボーンフレーム方式という最先端の車であった。水冷直列6気筒1.9リッターのSOHCエンジンは35HPを発生、のちには2.3リッター40HPの拡大型「T17/31」も製造され、1930年まで存続している。
また1926年には、1.7リッターの空冷水平対向4気筒エンジンを搭載した「T30」シリーズも開発された。これはT11の大型化とも言うべきもので、1933年まで生産されている。
[編集] 小型空冷モデル
この時期には既に空冷エンジン車を小型車の主力とする方針が固まっており、1930年には、T30の流れを汲む水平対向4気筒1.9リッターの30HP車「T52」が開発される。このモデルは1938年までの長期にわたり生産された。
T12の後継モデルとなる、より小型の空冷水平対向4気筒エンジン車「T57」と「T54」は1931年に登場した。T54は1.45リッター21HP、1934年までの短期間製造されるに留まったが、1.15リッター18HPのT57は1936年にT57a、1938年にT57bと、特にボディデザインの改良を加えられつつ、チェコスロバキアのベーシックカーとして実に戦後の1949年まで生産されるロングセラーとなった。製造台数22,000台は、戦前形タトラ車としては最多である。
T30の後継モデルとなるT75は1933年に開発されている。油圧ブレーキを標準装備した水平対向4気筒1.7リッター車で、1942年までに約4,500台が製造された。
このT75のシャーシをベースに、イギリス・サセックスのトマス・ハリントン社は、幅広な流線型ボディのスペシャルを製造した。「フィッツモーリス」(Fitzmaurice)と名付けられたこの特別版T75は、1933年のロンドン・オリンピアモーターショーに展示され、注目を集めたが、量産化はされなかった。
当時のタトラ製空冷フロントエンジン車は、ラジエーターなど前面の開口部がないつるりとしたボンネット(1920年代以前のルノーに似ているが、もっと華奢である)と、フロントタイヤの内側に飛び出した水平対向エンジンのヘッドとで、すぐそれと判別することができた。もっとも1930年代中期以降はダミーグリルを付けるようになった。 いずれも騒音が大きく非力だったが悪路に強く、ラック・アンド・ピニオン式のステアリング機構ゆえに回頭性にも優れていたという。
[編集] 高級車
一方、アッパーミドルクラス以上のモデルについては、しばらくは水冷式が踏襲された。
1930年に開発されたT70は、T17シリーズの後継モデルであったが、3.4リッターの直列6気筒65HPエンジンを搭載、かつブレーキは4輪油圧式を採用した。派生モデルとして3.8リッター70HPのT70aも開発され、1938年まで生産されている。